展覧会概要

第二次世界大戦下においては、画家が戦地に赴いて取材をする傍ら、戦場や兵士の様子、現地の風景、そして銃後の生活などを描いた戦争記録画(以下、戦争画と表記)が数多く制作されました。制作したのは、戦意高揚と軍の宣伝を目的に指名を受けた一流の画家たちでした。彼らは従軍画家と呼ばれ、1938年、藤田もこのメンバーに加わりました。しかし、戦後、彼らを待っていたのは、画家仲間からの厳しい批判でした。
1945年10月14日、医師で洋画家でもあった宮田重雄が「美術家の節操」と題した文章を朝日新聞に投稿、藤田はじめ、戦争画を描いた画家たちを「ファシズムに便乗し通した人」と呼び、「作家的良心あらば」「謹慎すべき時」であると主張したのです。翌年には、日本美術の民主的な発展と新たな価値の創造を掲げて発足した日本美術会が「自粛を求める」美術家として、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、横山大観など、8名の画家を名指しするという出来事が起こりました。同じ頃、藤田の友人で、当時、日本美術会の書記長だった内田巌は藤田のもとを訪れ、美術会での活動自粛を求める通知を言い渡したといいます。

一方、藤田の主張は次のようなものでした―画家とは真の自由愛好家で、軍国主義者であろうはずがない、「戦争発起人でも」「捕虜を虐待した訳でもなく」、国民の義務を果たしただけと考えているが、本当に戦犯として裁かれるのであれば、せめて紙と鉛筆だけを与えてほしい―。こうした言葉には、国民の義務として従軍しつつも、画家として戦争画と向き合った藤田の姿がうかがえます。事実、藤田が残した数々の言葉からは、当時、従軍画家としての使命を担った中で、芸術表現を研磨しようとした意気込みが感じられます。

本展では、終戦80周年を記念した特別企画として、藤田が描いた戦争画をはじめ、戦時下における彼のさまざまな画業を紹介します。当時、従軍画家として第一線で活動を続けた藤田は、何を描こうとしたのか。藤田の言葉も手がかりとしながら、戦時下で制作された数々の作品を丁寧に読み解きます。

みどころ

初公開作品が出展

《輸送隊》 制作年不詳 インク、水彩・紙

戦時下において『ホロンバイルの荒鷲』(1941年刊行)と『バルシヤガル草原』(1942年刊行)の装幀と扉絵を手がけた藤田。本展では、その原画である《飛行場》(インク、水彩・紙 制作年不詳)と《輸送隊》(インク、水彩・紙 制作年不詳)が初公開となります。また、同じく当時戦争画を描いていた日本画家 吉岡堅二との合作《貝》(水彩、墨・紙 1942-1944年頃)も初公開となります。。戦局がもっとも厳しい頃、二人は何を思い、この作品を描いたのでしょうか。
作品画像:《輸送隊》 制作年不詳 インク、水彩・紙

戦時下のパリを記録した手帳と作品のご紹介

作品画像:《巴里オルドネ―ル町》 1940年 油彩・キャンバス

従軍画家となった翌年の1939年4月、藤田は突如、パリへと飛び立ちます。しかし、パリの戦局悪化にともない、翌年7月、画家の高野三三男らと共に伏見丸で帰国しました。その後、藤田は戦争画の制作に力を入れていくことになります。本展では、約1年というわずかなパリ滞在期に描かれた作品や、戦時下のパリについて藤田が記録した手帳を公開します。パリのオルドネ―ル通りを描いた《巴里 オルドネ―ル》(1940年 油彩・キャンバス)は当館・初公開作品です。ドイツ軍の侵攻が迫る1940年に描かれたこの作品からは、静まり返ったパリの様子を窺い知ることができます。
作品画像:《巴里 オルドネ―ル》 1940年 油彩・キャンバス